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    上海を生きるー路上で売る人

    • 2013.09.15 Sunday
    • 22:43
                  江南地方の干物<板鴨>のお店

    偶然に紅白めでたい写真となったのですが、右手が店員です。
    中国では、食料品店員は白衣を着る人が多いのです。
    衛生的な理由でしょうけれど、たいていその白衣がヨレヨレなので(笑)

    さて。生き馬の目を抜く上海で、外地人(地方の人)が仕事につくのは大変。
    彼らはたいてい上海戸籍を持たないので、路上商売のようなものが多い。
    今回の写真は、そんな人たちです。



    地下鉄・路上売りは、上海万博前後に禁止されましたが、ま、それも一時的。
    今では堂々と復活。人は生きていかなければならないしね〜〜





                        うずらの卵売り





                   ☝ 主婦も主夫もたいへん ☟



    上海男性は料理上手。料理をつくるだけででなく、
    食材の買い出し、仕込み、後片付けすべてこなします。
    女性達は、出来上がりを待ってただ食べるだけ〜〜

                        路上で捌く
                 巻頭写真の<板鴨>の店先です



                良妻のふりを続けて幾とせか
                   もはや<ふり>のプロとなりけり・・・かめりん






    上海を生きるー洗濯物

    • 2013.07.25 Thursday
    • 20:29
                    路地を歩く家人

    上海では至る所、路地も大通りも、重文の建物であろうと、
    洒落たお店の前であろうと、ところ構わず、干してある洗濯物だらけです。
    勝手気まま、でも悠々とした洗濯物に上海人、いえ中国人が投影されているようで、
    面白いですねえ〜〜

                    文豪・魯迅の生家



    ところで、洗濯物の干し方ですが、
    日本人は、建物に対して平行に干すので、物干し台も平行にありますね。
    でも上海、というか中華圏は、建物に対して直角に干す・・・つまり
    道路にせり出す形になるんですよね。
    多分日本の場合、景観を重視するためだ、と思うのですが、
    上海式の方が、断然太陽に当たる率が多いから、合理的だと思うのだけれど〜〜


     




    でも景観上よろしくない、とのことでせり出し干しは禁止されたんですよ・・・でもネ
    そんな理不尽なことは、当然誰も守らない〜〜
    欧米は、一切外干しは禁止みたいですが、洗濯物は日光消毒が一番!


               木製の洗濯バサミが、懐かしい〜〜

               こんなものも干しちゃってます〜〜









                     後ろ姿が、87才の義母

    たなびく洗濯物を見る度に、
    上海の洗濯物も、厳しい上海を生きているのだなぁ〜〜と思うのです。

    七夕に寄せてー中国編

    • 2013.07.05 Friday
    • 00:16
                        中国の織女

    7月7日は七夕。            
    織女=織り姫と牽牛=彦星が一年に一度、この日に逢うのですね
    七夕伝説は、やはり中国が起源。
    中国の節気では、旧暦7月7日はもはや立秋。
    上弦の月=半月で、七が重なるので双七と呼び、縁起の良い日です。


    七夕は、古来中国では「乞巧奠(きこうでん)」と呼ばれました。
    翻訳すれば、巧みなことを願う祭事。女子が針仕事に長けるように願った儀式です。
    現代中国では<乞巧節>呼ぶ七夕には、 
    女子が、手作りのお細工物を発表展示する会が、盛んです。


    お細工物は、布靴・人形・袋物・ビーズ細工・ドールハウスetc
    針仕事に懸ける女性の情熱は、世界中同じく熱いようですね。



           


                    上海の新郎・新婦
         (義母宅近くの)国際礼拝堂前で、結婚記念写真を撮る新婚さん〜〜

    七夕・・・愛し合う二人が一年の一度の逢瀬では辛い。やはり一生を共に暮らしたい。
    恋人どうしは、結婚の夢が募ります。
    もう数年前になりますが、家人の部下であり義兄弟のような上海ッ子の
    結婚式に招待されました。 
            

    写真の子供達が配っているのはです。
    これを発喜糖といい、中国ではおめでたい事があると飴や、めでたいたばこ喜煙を配ります

       
             

    6月の花嫁=june・brideは欧州がいわれ。 
    日本では梅雨でも、欧州では花が咲き乱れる好い季節だからですね。        
    中国の結婚シーズンは5月か10月。共に好い季節ですが、特に10月が好まれます。
    10月1日の国慶節(建国記念日)から1週間休暇になることと、
    10月10日は十全十美=完全無欠。に掛け合わせるから。
    また9月9日 (9=久jiu ) 末広がりの8月8日も好まれます。

         
           中央でマイク持ってるのが、家人です。(右端は司会者)

    参列者の服装は全く自由、というか殆ど普段着。
    ・・・フォーマルという西洋式概念が、文革で消えたからでしょう。
    それでも欧米の影響力の強い旧租界地上海なので、洋服になじみのある人も多く、
    ネクタイ着用の人もちらほらいます
    (ちなみに葬儀も普段着です。ただ現在は遺族のみ黒服を着用することもあるみたい)
    上海人の列席者ばかりで、私がただ一人の外国人。
    変な注目をあびて、恥ずかしかったデス〜〜

    さて、上海の結婚の歴史をたどると・・・

                    蒋介石・宋美齢夫妻
           
    1930年代の上海はアジア最先端の大都市だったので、結婚式も洋装が多かったのですね。 しかし新中国建国や文革を経て、結婚式は質素・簡素化します。
    人前で結婚の報告をすることぐらい。よくて食事会程度でしょうか。

                        文革時〜〜
       
    20年程前までは簡素・地味婚で、私の結婚式(というより報告会)もそうでした。
    円卓を囲んで、いつもより少し贅沢な食事をして、家族、仲間内でお祝いする程度。
    ま、私達の場合は、単にお金がなかった〜〜というだけですが^0^

    現在は、年々豪華絢爛になっています。
    専門の結婚式場はないものの、ホテルで披露宴をするのが主流。
    ケーキカット、仲人・友人代表の挨拶、また新郎新婦が肉親への感謝を述べる、
    友人たちの余興・ゲーム・歌など、その形式は殆ど日本そのまま。
    というのも、上海にブライダル産業を最初に持ち込んだのは、日本の企業だから。
    費用は15~20万元= 2~300万円。
    上海サラリーマンの平均月収が5000 元だから、40倍!

                               娇车(花嫁車)
          
    中国の披露宴、日本と異なるのは夕方に行うことが大半なのです。
    式当日の早朝、新郎は迎親の為に新婦の家に向かいます。
    友人・知人は新婦宅で待ち構え、新郎を家に入れないように、意地悪するんですね。
    でもなんとか新郎はなんとか通過して、ここで初めて一家に迎え入れらるわけ。
    その後新婦宅で昼食を食べて、夕方にやっと披露宴。
    披露宴後は闹新房(ナオ・シンファン)
    迎親では新婦宅でしたが、闹新房では新婚家庭に友人知人が訪れて、新夫妻を祝福しつつ、
    彼らを冷やかしたり、家の値踏みをするという習慣です。
    ・・・しかし、現在ではホテルでの式が主流。翌日には新夫婦は新婚旅行なので、
    式の当夜は、たいていホテルに宿泊します。
    だから、新夫妻の泊まるホテルの部屋に、参列者がみんな訪れるんですよ〜〜

    他人の泊まる部屋を見て、何が面白いねん〜〜
    と思う私ですが、上海人(中国人全体か)にはそれが、面白い!んですよ。
    〜〜それで、ホテルの部屋代がなんぼやとか、今日の披露宴の料理代はなんぼや、
    とかいう、上海人大好きな話題で盛り上がるんですねえ。
    しかもその高い安いを、新夫婦や両親たち、彼らの知人親戚を含めた中で言い合う〜〜
    金銭に淡白な日本人には、考えられないことでしょう〜〜
    でも、私は上海人そんなあっからかんとしたところが、大好き!

    ★ しかし上海人、お願いします〜〜
    私に日本の結婚式の値段、質問するのはええねんけど、
    頼むからドル換算で尋ねんといて〜〜私は計算出来ひんねんから^^
    ・・・ちなみに、上海人の平均月収は5000元ですが、
    お祝い金の相場は一般では500元。近親者で1000元ぐらい
    (1元≒15円。でも生活感覚としては、1元が100円ぐらいかなあ。)

                     結婚証
       

    役所に結婚届けを出せば、戸籍はないので(世界で戸籍制度があるのは、日本だけ〜〜)
    上記のような証明手帳が発行されます。
    中国は晩婚奨励で、法律上の結婚年齢は男子22才以上、女子20才以上。
    夫婦別姓で、子供は父方の姓を名乗ります。

    さて中国・特に上海女性の強さには、脅威^^すら感じる私ですが、
    上海女性の結婚の条件は、男性は必ず,持家か持ちマンションがあること!
    家もないような男は結婚する資格なし,という厳しさ。
    でも、30才前の男性が持家なんて難しいですよねえ・・・
    そして最も重要なのは、上海人であること!
    中国は、大都市の人口を抑制するために住民移動の制限があり、
    農村の身分証を持つ者は(選別者以外)は、都市居住が許されないのです。
    そして残念ながら、上海人は地方人を見下げる風潮があり、
    上海人と農民との結婚は、ほぼありえないことなのです。

    というわけで、上海独身男性の婚活活動ですが、親がたいへんなんですよ〜〜
    お見合い。上海の公園では毎週末行われていて、
    子供を結婚させたい親が、(親達が書いた)子供の釣書プラカードやチラシを見せ合って、
    親同士がお見合いするんです。
    それが拡大して、
    現在では、お年寄りの再婚コーナーとか、国際結婚コーナーも出来ています。 
    私もお年寄りコーナーを覗いたことあるのだけれど、みんな楽しそうで〜〜

                      結婚記念写真撮影、というのは中国では本来喪服の色で、お祝いの色は
    花嫁は、必ず紅い服を着ました。
    だから、元来は白いウエディング・ドレスを着る習慣はなかったんですよ。
    古来中国のお葬式は、白い喪服を着て太鼓鐘を打ち鳴らし、
    さながらお祭りの様な賑わいで、それを見た日本人がこれは結婚式だ、と誤解して
    だから喪服である白色が、日本では花嫁衣装になったという逸話があります〜〜

    現在では、中国の女の子の憧れの的はやっぱり純白のドレス!
    そして、写真大好きな中国人。
    だから、白いドレスとお色直し(たいてい、紅いチャイナドレス)
    アルバム写真を撮ることが、本来の結婚式より重要化して、
    街の到る所で、新郎新婦がアルバム用記念写真を撮っています〜〜

           
     義母宅は旧フランス租界にあるので、おしゃれなイメージがあって、
    人気写真撮影場所で、いつでも誰かが撮影してます。
    でもね、道路のド真ん中でこんなことせんでもええやろうに〜〜  

    でも二人は幸福いっぱいで・・・それが一番ですね〜〜           
           

                        
             
    <追伸>
    ボムスが、ビョンホンの結婚式の司会!の一部を担うこととなりました。
    結婚式は、8月10日です。        
              






    雲南少数民族の新郎新婦

    • 2013.06.20 Thursday
    • 12:35
                        ラフ族の婚礼

    中国は、漢族以外の55種の少数民族約1億1000万人が住む、民族複合国家です。
    なかでも雲南省は、25種の少数民族が暮らす地域です。
    私は日頃漢族に囲まれているので、少数民族の人達と会うとほっとします。
    特に雲南省は、稲作・お茶・豆腐・寿司をはじめとする、
    日本文化の原郷といわれ、
    日本人に近いからなのか、懐かしい感がありました。

         <一山分四季、十里不同天>
    というふうに、雲南省は山一つ越えると気候風土も変わり、
    5キロ歩くと、同じ民族でも言葉も習俗も異なるので、民族衣装もそれは多彩です。
    以前に、中国少数民族伝統衣装を(少しだけ)紹介して好評だったので、
    今回は、「雲南婚礼衣装編」 

                        水族



                    白族

                 チベット族

                      ハ二族

                     苗(みゃお)族

    ミャオ族は、雲南省・貴州省からタイ・ミャンマー・ラオス・ベトナムと
    広域に分布しますが、中国内には900万人。
    青(ミャオ)白・紅・黒・花と5種の支流があり、各々言葉も通じず、習俗も異なります
    なお、タイではメオ・モン族とも呼ばれます。
         

    ミャオ族は刺繍、特に挑花(クロスステッチ)を得意とし、
    また銀の民族といわれるほど銀を多様し、女性の銀衣装は15kgにもなります。
      
       
      
     韓国では、祭祀に豚頭を奉納しますが、その源流がミャオ族にあったのですね〜〜 

      
           
           

                       イ族

    イ族は、中華民族の祖といわれています。古来より奴隷制を持ち、
    黒イ族=貴族、白イ族=平民、その他の民族=奴隷と区分されました。
    また、雲南少数民族は、その殆どが妻問い婚・・・夫が妻の元に通い、
    女性に財産権がある母系社会です。ところが、イ族のみは父系社会なのです。

    イ族には、背負い婚礼という風習があります。
    大地に住まう悪霊を避けるために・・・という意味があるそうな〜。
    それにしても、男性に背負われて嫁入り〜〜ステキですね。




                          ヤオ族

    ヤオ族は、雲南省、広西省からインドシナ半島一帯に広がる山岳民族。中国内には270万人
    ヤオ王女と犬の間に出来たのが、ヤオ族の始祖とされます。
    その伝説が史記に書かれ、日本に伝わり「南総里見八犬伝」になったそうです。
                       
     
     
         
      

      

               再びミャオ族



             
            愛する。 
            それはお互いを見つめ合うことではなく、
            共に、同じ方向をみつめることである。

                                  サン・テクジュベリ








    命尊し!

    • 2013.06.04 Tuesday
    • 00:23
    去年の国慶節(10月 1日、中国の建国記念日)での北京・天安門広場

    今日は6月 4日。
    私が、この独りよがりの気ままなブログを書き始めて、すでに4年になります。
    24年前のこの日、私は天安門事件に遭遇しました。
    私は、私が経験した未曾有のあの惨劇を、この目で見た一人の人間として、
    記憶に留めておく義務があります。
    とは思うものの、事件から約20余年を経て、悲しいかな記憶が薄れ始め、
    今一度自分にしっかりと刻んでおきたいが為に、このブログを書き始めたのでした。

                  現在の長安街

                      1980年代の長安街
      男性達は短パン! 冷房設備のない当時、短パンは暑い北京の夏には必須でした。

    縁あって上海人と結婚して、奇しくも1989年。
    仕事関係で北京に駐在することとなりました。住居は民族ホテル。
    民族ホテルは、北京の目抜き通りの長安街に面し、
    天安門広場まで2キロ。徒歩で30分の場所でした。
    当時は、外国人の居住場所はホテルに限定されていた・・そんな時代でした。

                   1989年5月の天安門広場 

    1989年6月3日未明
    「玉葱を剥くよりちょっと痛いな」
    流れ催涙弾をあびて、目に激痛が走っているにもかかわらず、
    私は負け惜しみを言いながら、、
    狂ったように発砲する歩兵を、民族ホテルのベランダから見ていた。
    ホテルにも実弾が撃ち込まれ、ベランダで見学?などはもってのほか。
    宿泊者の安全のため、全員ロビーに退避することとなる。
    ロビーはすでに死傷者の避難場所となっており、修羅場と化していた。
    銃で撃たれた人間の夥しい鮮血を目の当たりに、私は呆然とするばかり。
    しばらくすると、人々が叫び出す。「tanke(坦克)! 
    初めて耳にする単語がわからず、一瞬とまどう。
    瞬間、家人が私の手をにぎりしめ、震える声で「戦車だ」
    ・・・・・・・
    人はあまりの事態に遭遇すると、全く思考が停止してしまうのか。
    発砲している何台もの戦車が、自分の目前を横切りながらも、
    映画みたい〜〜などど遠い世界のことのように思っていた。
    ましてや、
    アジア、否、世界史の転換点に在ることを認識することなど、全くできないでいた。
    そして・・・日付は運命の6月4日になり、私はまんじりともせずに人一夜を明かした。
       

    翌早朝、人っ子一人いない長安街を、私は見つめていた。
    しばらくして・・・路地から大八車を引いた青年が登場した。
    乗せているのは荷物ではなく・・・遺体だった。
    昨夜の惨事にまる一夜、路地裏から,
    息をひそめ、固唾をのんで事の成り行きを見ていたであろう北京市民。
    彼らが路地から一人、又一人と出て来て、大八車の後に続いた。
    ・・・10数人が無言で長安街を進む。荘厳にして敬虔な葬列。
    その姿を眼にして初めて涙があふれ、この現実に号泣した。

    その無名の人の死を悼む間もなく、夥しい戦車群が長安街を往来しだした。
      


    明かに内戦の様を呈している。
    空港が閉鎖される危険性もあるから、一刻も早くこの地から脱出しなければならない。
    義父にとにかく無事を知らせ、北京を離れる旨の電話をする。
    「わかった。何も言うな。ただ生きて帰れ〜〜」と叫んだ義父は、今は鬼籍の人となった。

    翌日、やっとツテを頼って乗ったタクシーであったが、
    市民の投石と、あまたの戦車の轍で道路が波のようにうねり、車が飛び跳ね、
    その車中から見た光景は・・・バスは焼けただれ、砲弾で建物のガラスが飛び散り、
    そして・・・歩道橋には吊り下げられた若い兵士の遺体が、宙ぶらりんに揺れていた。

    *   *   *   *   *

    1965年から10年間続いた文化大革命は、死者40万人・被害者数1億人。
    政治・経済・文化に未曾有の損失と停滞をもたらした。
    毛沢東亡き後、傷ついた中国を率いた鄧小平は、改革開放政策を以て国の立て直しを計る。
    そして開放政策は経済の発展とひずみと、国民に自由への要求をもたらす。

    1989年4月、保守派との権力闘争に敗れた胡耀邦共産党書記の死去に際し、
    彼の名誉回復を求めて始まった学生デモが、
    北京をかわきりに、中国全土を巻き込んだ民主化要求闘争に発展する。
         

    学生達が趙紫陽書記との対話を求めて、天安門で断食を決行したのは5月半ばであった。

                        
    学生・・・我愛麺包 更愛真理    私はパンを好む、それ以上に真理を愛する。
    市民・・・学運万歳、民主万歳    学生運動と民主万歳

    市民は学生を応援し、
    そして学生達は、市民に応えて天安門に立った。
    私はその清々しい、晴れやかな学生や市民、北京の人達の姿に連日接しながら、
    この北京の大地にあって、彼らと同じ空気を吸っている幸福に満たされていた。

          生命誠宝貴、愛情価更高。若為自由故、二者皆事抛
            命は誠に尊い。愛情はさらに価値がある。
            しかし自由の為ならば、その二つさえ投げ捨てよう〜〜


               これはペンキ(漆)ではない。血だ!

    そして・・・6月4日、天安門の学生達は鎮圧された。
    「人民の軍隊」といわれる解放軍が、どうして発砲したのか、
    市民を学生をなぜ殺傷したのか、今もわからない・・・

    日本帰国の機内で、安堵から拍手する乗客に反して、
    中国の前途は、いや私達夫婦のこれからはどうなるのか、
    どうしたら良いのか・・・私は暗澹たる気持ちで、心は暗く塞いでいた。
    その後、半年後には再び北京に戻るのだが、
    北京市民は口をとざし、もの言わぬ人となっていた。
    このときの天安門の惨劇は、日本初の衛星中継となり、
    世界中の人々の目に、悲劇をさらすこととなった。
    しかし政府は天安門事件を、動乱・反革命と位置づけ、
    今に至るまで関係者は、逮捕投獄される日々が続いている。
    当局発表の死者数は139名。しかし実際は600名以上といわれ、今も不明のままである。

    世界を震撼させた天安門事件からわずか半年後、ベルリンの壁が崩壊。
    そしてソ連・東欧諸国が解体し、冷戦構造が終結する。
    ・・・ゆえに平和が来訪したか 否。
    その後コソボ・チェチェン・アフガニスタン・ソマリア・シェラレオネ等の紛争
    湾岸・アフガン・イラク戦争・・・
    中国は、チベット・新疆ウイグル自治区などへ人権弾圧を強め、
    そして・・・日本は東北大震災と原発事故を経験した。
    むしろかつてない環境破壊、人口問題、食料危機、資源争奪を巡って、
    事態はますます悪化の一途をたどっている。

               2年前、香港にて       

          ママ アメリカはカナダのとなりだからさ、
          「カナダくん あそぼ」っていってさ
          ニッポンは 中国のとなりだから
          「中国くん あそぼ」っていったらいいのにね
    6才の子供の詩である。
    この6才の子の素朴かつ真摯な声を、なぜ私達大人が聞く事ができないのだろうか・・・

     私は、私達は1989年6月4日を忘れない。忘れてはならない。
          
     


          生きとし生きるもの全ての命よ。尊し!
            
                                   
       



            
          

                        


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